研究生: |
黃翠 Huang Tsuei |
---|---|
論文名稱: |
近代日本時期良妻賢母思想之形成與展開 -以『女大學之研究』為中心- The Ryosaikenbo ideas's constitute and evolution - 『The research of Onnadaigaku』 at the center - |
指導教授: |
藤井倫明
Michiaki Fujii |
學位類別: |
碩士 Master |
系所名稱: |
東亞學系 Department of East Asian Studies |
論文出版年: | 2015 |
畢業學年度: | 103 |
語文別: | 中文 |
論文頁數: | 136 |
中文關鍵詞: | 良妻賢母思想 、女大學 、女大學之研究 、女子教育 、井上哲次郎 |
英文關鍵詞: | The thought of Ryosaikenbo, Onnadaigaku, The research of Onnadaigaku, female studies, Tetsujiro Inoue |
DOI URL: | https://doi.org/10.6345/NTNU202205272 |
論文種類: | 學術論文 |
相關次數: | 點閱:265 下載:34 |
分享至: |
查詢本校圖書館目錄 查詢臺灣博碩士論文知識加值系統 勘誤回報 |
本論文以1909年開辦的研討會「女大學之研究」為中心,研究近代日本時期良妻賢母思想之形成與展開。
筆者以讀酒井順子寫的隨筆《儒教與敗犬》(2009)為開始研究。本書提出儒教性的傳統家族觀和現代的男女平等思想發生齟齬、引起晩婚化和少子化在東亞的假説。另外、作者推定現代人潛在的傳統女性觀是,從江戸時代出版的女訓書『女大學』由來。
本書作者認為,現代的「男性做工作、女性在家庭」的觀念的起源就是從江戸時代出版的『女大学』來的,而且這個觀念引起了現代的女性問題的想法,筆者認為很有意思。不過,讀相關的資料中遇到了一個小山静子的學說:傳統女性觀是從1897 ~1906(明治30年代)成立的良妻賢母思想而來。所以,筆者關注良妻賢母思想的實態、『女大學』和良妻賢母思想的關係這兩點。
『女大學』是江戶時代出版的,教出嫁給他家的女兒如何當良妻的教訓書。良妻賢母思想是當良妻幫助丈夫,當賢母養育和教育小孩的理想女性圖像。女性守護家庭、做好妻子或母親的本份。於是可關注,成立良妻賢母思想之前,《女大學》已被重複討論過。其中一個就是、跟政府有關係的哲學者井上哲次郎,邀請九個教授來開辦研討會「女大學之研究」(1909)。
筆者懷疑,當時雖然女子教育之理念的良妻賢母思想成立後,女子修身教科書也多數已經出版了,但是為何開辦這個研討會,並且重新討論《女大學》。本論文預測因剛成立的良妻賢母思想未能充分普及成為女子教育的理念;再加上,需要把良妻賢母思想改編成比較適合日本社會;因此,這個研討會「女大學之研究」擔任重要的角色在改編的過程中。
於是,筆者根據考察這個研討會、時代背景和良妻賢母思想的變遷,查明研究當時教育者面對的問題和《女大學》重新被討論的理由。並且,以井上哲次郎的女子修身教科書為參考,具體分析研討會「女大學之研究」參加者的論說來考察,明治時代後期的女子教育的擴張和被改編的近代女子教育狀況。從而,以下如此查明關於這個研討會的內容・開辦目的・意義這三點。
在研討會「女大學之研究」裡,參加者從不同視點議論《女大學》,驗證對福澤的《女大學》的批判;結果,不能全盤否定《女大學》,畢竟當時根據家族制度的日本社會裡,此書的道德性還是必要。因《女大學》裡太強調男女差別,所以被反對導入到推行女子教育,但是為了女性當養育對國家可以貢獻的人材的母親,此書裡的道德性對國家意識是必要的。
透過分析查明了研討會「女大學之研究」開辦的三個目的:第一個是,各女學校沒有徹底的思想教育,因此女子教育的方向需要統一成良妻賢母思想。第二個是,為了發揮良妻賢母思想必要《女大學》裡的道德性。第三個是,一般父母要求比較傳統的女性像,導入《女大學》可理解女學校。換句話說,這個研討會是,為了統一良妻賢母思想、維持家族體制,需要『女大學』裡的當成家庭的女性的規範儒教性的道德導入在女子教育裡。
還有關於前述提過的兩個疑問,結論如下:首先,明治三十年代時的良妻賢母思想就是,根據女性要在家庭裡,當良妻幫助丈夫,當賢母教育小孩;女性是透過家庭的角色才能貢獻國家或社會(間接的),是跟男性同等的立場。不過這個觀念是如次從前的研究已查明,後來變成女生也可以工作,而且可以運用女性的特質來直接的貢獻國家或社會,事實上的當了男性同等的立場。並且,明確了近代良妻賢母思想的變遷的過程中,江戶時代的《女大學》裡的儒家的道德也被運用的事實。
In this paper, constitution and development of “The Ryosaikenbo idea” (良妻賢母 = good wife and wise mother) in modern Japan, a focus on symposium “The research of Onnadaigaku(女大学)” in 1909 was studied.
The writer aimed at these two points, the reality of “The Ryosaikenbo idea”, and the relationship between “Onnadaigaku” and “The Ryosaikenbo idea”.“Onnadaigaku” is the female instruction note on which rules as wives, was written for girls who marries in to another family in the Edo period. “The Ryosaikenbo idea” is to be the ideal image of a woman who helps their husband as a good wife and educates their child as a wise mother.
The writer focused on the case of “Onnadaigaku” which was discussed many times before “The Ryosaikenbo idea” was established. And one of that is symposium “The research of Onnadaigaku”(1909) which was held by Philosopher Tetsujiro Inoue of an administration official. He invited nine professors of female education for this symposium.
Even though “The Ryosaikenbo idea,” an idea of female education, was established along with the publication of female ethics textbooks, “Onnadaigaku” was brought up for argument again in this symposium. It seems that the idea of female education during those days was unable to spread sufficiently due to establishment of “The thought of Ryosaikenbo.” For this reason, it was necessary to reorganize and come up with a new idea that was suitable for the Japanese society. Therefore a writer thought it was this symposium on “The research of Onnadaigaku” that played an important role for the reorganization process. However, how the realities, background and process of the symposium was able to help establish “The Ryosaikenbo idea” weren’t discussed clearly
Therefore the symposium on “The research of Onnadaigaku” was considered by writing, the background was made clear and was based on “The Ryosaikenbo idea” changing, and thus we found the problem educators were faced with in those days, and the reason that “Onnadaigaku” was discussed again.
Moreover we clarify that female education in the Meiji latter period analyzed participant's editorial of a symposium, “The research of Onnadaigaku”, specifically by making reference to Tetsujiro Inoue's female ethics textbook, and developed, and the state from which it’s changing was considered. We clarify three points, the contents, the holding purpose and a point was made clear about this symposium by doing that.
単行本
慶応義塾大学三田情報センター(1972)『慶応義塾図書館史』 慶応義塾大学三田情報センター出版
小泉吉永(2003年10月-06年7年)『女大学資料集成 全20巻 別巻』 大空社
高等女学校研究会(1989)『高等女学校資料集成 修身教科書編』 大空社
小山静子 (1991)『良妻賢母という規範』 勁草書房
酒井順子 (2009)『儒教と負け犬』講談社
島薗 進/磯前順一 (2003)『井上哲次郎集』 クレス出版
女性史総合研究所 1990『日本女性生活史』 第四巻 東京大学出版会
関口すみ子 (2007)『国民道徳とジェンダー』 東京大学出版会
瀬地山 角(1997)『東アジアの家父長制:ジェンダーの比較社会学』 勁草書房
仙波千枝 (2008)『良妻賢母の世界』 慶友社
総合女性史研究会 (1993)『日本女性の歴史 文化と思想』 角川選書
総合女性史研究会 (2004)『日本女性史論集8 教育と思想』 吉川弘文館
大日本教育会(1890)『大日本教育会雑誌 第一六五号』 大日本教育会
高群逸枝 (1969)『女性の歴史(下)』 講談社文庫版
竹村和子/義江明子 (2010)『思想と文化』 明石書店
手島益雄(1908)『女子の新職業(新婦人叢書)』 新公論社
永原和子 (2012)『近現代女性史論—家族•戦争•平和—』吉川弘文館
日本女子大学女子教育研究所(1967)『明治の女子教育』 国土社
西澤直子 (2011)『福澤諭吉と女性』慶応義塾大学出版会
ねりま24条の会 (2005)『ジェンダーからみた日本女性の歴史』 明石書店
深谷昌志 (1966)『良妻賢母主義の教育』 黎明書房
布川清司 (2000)『日本女性倫理思想の流れ』 大月書店
三井為友 編集・解説(1977)『日本婦人問題集成4<教育>』 ドメス出版
論文
青山なを「福澤諭吉と『女大学』」(『東京女子大学論集)第6巻2号(1956)pp.105-123東京女子大学学会)
磯部 香「女子教育者 三輪田眞佐子における「家庭」言説の受容—明治期の婦人雑誌 『女鑑』を対象とした分析から—」
(『日本家政学会誌)第59巻10号(2008)pp.793-803日本家政学会)
江島顕一「明治期における井上哲次郎の「国民道徳論」の形成過程に関する一考察」(『慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要 : 社会学・心理学・教育学 : 人間と社会の探究』第67号(2009)慶応義塾大学大学院社会学研究科)
海後宗臣「吉田熊次先生の思い出」
(『教育哲学研究』第11号(1965)pp.70-72 教育哲学会)
木下比呂美「日本人の母性観について」
(『林学園女子短期大学紀要』第9号(1980))
「明治後期における育児天職論の形成」
(『日本教育学会大會研究発表要項』第40巻pp.78(1981年8月28日))
姜 華 「高等女学校における良妻賢母教育の実際に関する一考察--校長などの訓話、校訓・生徒心得、寮生活などの分析を中心にして」
(『早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊』第19-1号(2011)pp.81-91早稲田大学大学院教育学研究科)
「明治中期以降における高等女学校教科書に見る良妻賢母教育 : 国語読本の分析を中心にして」(早稲田大学大学院教育学研究科『早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊』第19-2号(2011年)pp.95-105)
「修身教科書に見る良妻賢母教育の実際とその特質―明治後期を中心にして―」(『早稲田教育評論』第25巻1号(2011年3月11日)pp.89-106早稲田大学教育総合研究所)
「大正デモクラシー期の修身教科書に見る良妻賢母教育 : 井上哲次郎編『女子修身教科書』を中心にして」
(『アジア文化研究』第19号(2012年6月)pp.5-22、国際アジア文化学会)
「大正デモクラシー期の修身教科書に見る良妻賢母教育の変容 : 下田次郎編『女子新修身書』改訂版を中心にして」
(『アジア教育史研究』第21号(2012年3月)pp.33-48アジア教育史学会)
「大正デモクラシー期の高等女学校教育をめぐる改革論議−1925年の全国高等女学校会議を中心に−」(『早稲田大学教育学会紀要』第14号(2013年3月)pp.97-104)
久保内加菜「女子教育の構成に関する歴史研究(その1)」
(『山脇学園短期大学紀要』第42号(2004年3月10日)pp.1-15紀要編集委員会)
蔵澄裕子「近代女子道徳教育の歴史—良妻賢母と女子特性論という二つの位相—」(『研究室紀要』34号(2008年6月30日) pp.49-57東京大学大学院教育学研究科教育学研究室)
小山彰子「「語り」からみる明治期の女子教育」
(『三田社会学』第10号(2005)三田社会学会)
在田則子「四高考古資料と北陸人類学会」
(『金沢大学資料館だより』第7号(1996年3月28日)金沢大学資料館)
佐伯順子「明治時代に退化した男女「対等」−新島八重の生涯に見る近代日本−」(『2012年度総会記念講演会記録』(2012/5/26)浦安市国際交流協会)
柴沼晶子「英国留学で得たものー安井てつと大江スミの場合を比較してー」
(『敬和学園大学研究紀要』(1999年2月)pp.243-267敬和学園大学人文学部)
高橋陽一「吉田熊次教育学の成立と教育勅語」
(『明治聖徳記念学会紀要』第42号(2005年12月)pp.57-68 明治聖徳記念学会)
榑松かほる「第24巻 吉田熊次『女子教育の理念』」
(『近代日本 女子教育文献集 第Ⅲ期解説)(1984)日本図書センター)
中嶌 邦「日本教育史における女性」
(『女性学をつくる』(1981)女性史総合研究所編, 勁草書房)
「女子教育の体制化−良妻賢母主義の成立とその評価」
(『講座 日本教育史 三)(1984)第一法規)
中村敏子「歴史的文脈における福沢諭吉の家族論の意味」
(『北海学園法学研究』第43巻2号(2007年9月)pp.347-375 北海学園法学研究)
「福澤諭吉における文明と家族(序説)」
(『北海道大学法学論集』第40巻5・6号下(1990年9月17日)pp.2389−2409 北海道大学法学部)
「福澤諭吉における文明と家族(一)」
(『北海道大学法学論集』第44巻3号(1993年10月25日)pp.467−527 北海道大学法学部)
「福澤諭吉における文明と家族(二)」
(『北海道大学法学論集』第44巻4号(1993年12月20日)pp.741−812 北海道大学法学部)
「福澤諭吉における文明と家族(三・完)」
(『北海道大学法学論集』第44巻3号(1994年3月31日)pp.197−261 北海道大学法学部)
長野和子「成瀬仁蔵の女子高等教育論と女性観 : 吉田熊次との比較検討から」(『日本教育学会大會研究発表要項』第71号(2012/08/22)pp.122-123日本教育学会)
矢口徹也「女子補導団の研究」(博士論文、早稲田大学、2007)
陳繼東(Ji-Dong Chen)「在中國發現武士道-梁啟超的嘗試」
(『臺灣東亞文明研究學刊』第7卷2期(2010/12/01)pp.219-254)
参考資料
井上哲次郎
『女子修身教科書』第4巻 金港堂、1904(明治37)年2月、訂正3版
『訂正女子修身教科書』第4巻 金港堂、1907(明治40)年1月、訂正5版
『女子修身教科書』上級用 金港堂、1907(明治40)年12月、再版
『再訂女子修身教科書』第4巻 金港堂、1910(明治43)年10月、訂正6版
『女大学の研究』東亜協会、1910(明治43)年
『教育と修養』弘道館、1910(明治43)年
『新編女子修身教科書』第4巻 1912(大正元)年11月、初版
『新編女子修身教科書』上級用 金港堂、1914(大正2)年12月、訂正4版
『人格と修養』広文堂書店、1915(大正3)年
『新訂女子修身教科書』第4巻 金港堂、1918(大正6)年1月、訂正3版
『最新女子修身教科書』第4巻 金港堂、1922(大正10)年11月、訂正3版
『井上女子修身教科書』第5巻 金港堂、1926(大正14)年10月、初版
貝原益軒
『和俗童子訓』目黒書店、1893(明治26)年
『女大学』双文閣、1883(明治16)年
『女大学宝箱』文栄堂[ほか]、1800年
東亜協会
『東亜之光』 第6巻第9号 1911(明治44)年9月1日
下田次郎
『女子教育』金港堂、1904(明治37)
福沢諭吉
『女大学評論附・新女大学』時事新報社、1899(明治32)年